「この世界の片隅に」見た。泣いた。

この世界の片隅に」見た。

というわけで映画見た人にしかわからないような感想を書く。

 

そもそも、この手の映画(感動特化型)って基本的に見ない派なんだけど、

やたらとこの映画を持ち上げまくる記事(凄いところだと「宮﨑駿や新海誠よりすごい監督が出てきた」的な)を見てきたので、なんとなくふらっと豊洲まで足を運んだわけです。

 

私は基本的に映画で泣く事なんてなかなか無いんだけど、今回泣きました。

どのシーンがどうこう、とかじゃなくて、映画全体の持つ熱量に押されて泣いた感じ。

 

そりゃあ、「あ、ここで泣かせに入ってるんだろうな」ってシーンはちょこちょこあるよ。

でも本当に泣けてくるのは、そういった感情的なシーンが終わった後に、日常的なシーンが普通に差し込まれてくるところね。

そこでこれまで沢山流れてきた日常シーンが、凄い熱量になって流れ込んでくるわけよ。

 

普通の人間って感情を吐き出した後、急激に通常のトーンに戻るよね。

でも実際は感情を押し殺しているわけで、感情を吐き出した後は通常状態になる以外に行動のしようがないんだよね。

それがとても涙を誘うわけよ。

 

本来ならここでその他大勢の映画のクソショボ感情表現演出を批判しても良いんだけど、せっかくの余韻が汚れるのでやめる。

 

あとはあれかな、表現が多彩でよかったね。

主人公が絵描きで芸術家気質があるもんだから、夢想的な表現が多かった。

その表現の意図というのが常に一方向(脚本の意図が透けて見えるようなやつ)を指しているわけではなくて、主人公の心象風景をそのまま垂れ流している感じでよかったね。

例えば、主人公が落ち込んでいるところに、その頭をやさしく撫でる顔の見えざる大きな手。

これ、普通は想い人の手だよね。

またはその後主人公と親密になるキャラクターの手。

でも違う。

嫁ぎ先のお父さんの手。

かといってその後お父さんが活躍しまくるかといえばそうでもなく、過去にお父さんとの決定的なエピソードがあったわけでもなく、ただ「その時頭を撫でてくれたのがお父さんでそれが主人公にとってとても印象的で、それでとても救われた」から。

すごくリアル感出てて良いと思う。

 

最後に、好きなシーン2つ。

1. 最初のシーンで、船を降りた後に風呂敷で包んだ重箱っぽい荷物を背負う所。

一度壁と背中の間で重箱を挟んで固定してから、風呂敷の端を首の手前で結んでうまいこと背負うシーンね。

ああいう日常動作を流れ作業的にテキパキこなすシーンは実写だろうとアニメだろうと不可欠だよね。なんか省略される事が多いけど。

この映画は「日常」に焦点を合わせた映画なんだけど、そのなかでもこのシーンの日常感は郡を抜いて好き。

初めの方のシーンということもあるけど、「ドジ」とラベルの貼られたキャラクターにもかかわらず器用な作業を難なくこなしているのがとても印象的だった。

「この映画ではキャラクターはストーリーを進めるための道具ではなく、この世界で生活している人間なんだな」と初めて感じたシーンだった。

そしてその感覚は幾つものシーンで何度も味わうことになる。

 

2. この映画で最後にセリフを発するシーン。

好きと言っておいてあれなんだけど、最後のセリフちゃんと記憶してないんだよね。

「あの子の来ていた服、着れるかしら」だっけ。たしかそんなセリフ。

あの言葉を言う時、お姉さんは何を思っていたのだろうと考えると泣けてくるが、

当の本人はきっとある程度克服していたはずなのと、新たな同居人のお目見えという特殊イベントの流れに押されてその言葉が出たのだろうと思う。

あの服を取り出してからセリフを発するまでの時間に、私は少し身構えてしまった。

しかし当然、それは無駄な身構えだった。

あの世界の住民が、あの場で感情を吐露するはず無いのだから。

そこは私達の住む世界と地続きになっているもう一つの世界であり、創作の世界にありがちな違和感とは無縁の世界なのだから。

 

こんな感じ。

演劇好きな人なんかは合わないんじゃないかな(偏見)。

地味な表現多いし、演劇好きって露骨な感情表現が大好きで違和感とか感じないんでしょ(超偏見)。

そういう人から見たら退屈な映画なんだろうと思う。と見えないサンドバッグを殴りつけておく。

逆に演技過剰な邦画やらが大っ嫌いな人には合うんじゃないかと思うよ。